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舎密局のリッテル先生

8月30日はゲールツ先生の命日で外人墓地に行きます。

アントン・ヨハネス・コルネリス・ゲールツ(Anton Johannes Cornelis Geerts、1843年3月20日-1883年8月15日)は、オランダの薬学者。日本薬局方の草案を起草するなど近代日本の薬事行政、保健衛生の発展に貢献した。なお、ゲールツはドイツ語読みであり、オランダ語読みではヘールツ ゲールツは明治19年(1886年)の初版「日本薬局方」の公布を待たず、1883年8月15日横浜の地で腸チフスにより急逝する。現在、横浜外国人墓地にきわ夫人とともに眠っており、墓碑を神奈川県薬剤師会が管理している。wikipediaより

ついて、と言っては失礼ですが同じ墓地のリッテル先生のお墓にも参ります。
「蘭書をもとに、天保8年(1837)から編纂刊行された宇田川榕菴の『舎密開宗』(せみかいそう)によって、化学がはじめてわが国にに紹介、導入され .... その後任にはドイツのヴェーラー門下のリッテルが教頭に赴任し、舎密局の延長としての理化学教育を行った。
「舎密局」の「舎密」とは、幕末期に広く使用された、蘭語のchemie(化学)に対する当て字(例えば宇田川榕菴の著書『舎密開宗』など)であり、当時、実生活に対する洋学(科学)の応用という点で化学が特に重視されたことに関わる命名である。
大阪舎密局はその後理学所,大阪開成所などと名称を変えつつ,のちの第三高等学校(京大)へと引き継がれた。
15歳の高峰譲吉さんは、大阪の舎密(化学)学校で、ドイツ人のリッテル博士の授業をドキドキしながら聞いていました。 舎密は、なんとおもしろい学問だろう――。 譲吉さんは、医者をめざして医学学校でも学んでいましたが、実験がおもしろいので、たちまち化学に夢中になりました

舎密開宗(せいみかいそう)
七冊 天保八年(一八三七)〜弘化四年(一八四七)刊 彩色図入 宇田川榕庵訳
日本最初の科学書。イギリスのウイリアム・ヘンリーの著書のドイツ語訳のオランダ語訳を原著とし、幕末の蘭学者宇田川榕庵が、晩年の銃熱を傾けて訳した名著。訳とともに自らの注釈・実験の結果も記している。「舎密(せいみ)」はラテン語系オランダ語のChemie(科学)の音訳であり、「開宗(かいそう)」はもののおおもとを啓発するの意である。
これまで日本における科学に関する知識は、薬剤を調整する必要から医者によって研究されていたが、この書によってはじめて体系のある科学の一つとしての化学が樹立されるにいたった。
全七篇二十一巻、内編十八巻六冊・外編三巻一冊より成る。片仮名交りの本文、彩色刷の挿画多数入。初篇から六篇に内篇十八巻を、七篇に外三巻を収録。


神奈川県薬剤師会がリニューアルし立派になったゲールツ先生のお墓に対して、リッテル先生のお墓は上部の十字架が無くなり、墓碑の文字がほとんど読めない状態です。会長が「こちらもなんとかしないとなあ」ともらしていました。